陰陽道

陰陽道の神社はどこにある?役所の跡・神を祀る社・伝説の地の3種類

陰陽道の神社はどこにある?役所の跡・神を祀る社・伝説の地の3種類

土御門総社にて 撮影:高島進一

今回は、陰陽道ゆかりの神社はどこなのか?その神社が陰陽道とどうつながっているか?を調べてみました。

平安時代の『今昔物語集』は、晴明の家を「土御門よりは北、西の洞院よりは東」と書いています(山下克明『陰陽道の発見』)。僕は、いまの晴明神社の境内がそのまま晴明の屋敷だったと思っていましたが色々とあるようです!

この記事では、社伝と史料がそれぞれ何を語っているかを神社ごとに確かめていきます。

この記事でわかること

・陰陽道の神社は、陰陽師の家と役所、陰陽道の神、晴明伝説の3種類
・八坂神社の神は、古い記録で「祇園天神」「牛頭天王」と呼ばれた
・立石の晴明の伝承は、1794年から今まで少しずつ話が増えた

陰陽道の神社は3種類に分かれる

陰陽道の神社は3種類に分かれる

陰陽道ゆかりの神社は、陰陽師の家と役所、陰陽道の神、晴明伝説の3種類に分けられるようです。

3種類それぞれの代表の神社を、本に書かれている理由と一緒に表にしてみました。

【表】陰陽師の家と役所にゆかりの神社・お寺

神社・お寺(所在地)なぜ陰陽道の神社か本
晴明神社(京都市上京区)安倍晴明を祀る。一条戻橋のそば『陰陽師の日本史』
大将軍八神社(京都市上京区)方位の神・大将軍神を祀る。旧陰陽寮の皆川家の資料が残る『陰陽師の日本史』、鈴木一馨論文
安倍文殊院(奈良県桜井市)安倍氏の氏寺と伝わるお寺。1754年の「晴明の旧地」の第一『陰陽師の日本史』、梅田千尋論文
名田庄(福井県おおい町)土御門家の所領。いまは土御門神道本庁がある『陰陽師の日本史』、『陰陽師の解剖図鑑』

【表】陰陽道の神を祀る神社・お寺

神社・お寺(所在地)なぜ陰陽道の神社か本
八坂神社(京都)古い記録で祭神は「祇園天神」「牛頭天王」と呼ばれた『陰陽道の神々』
廣峯神社(播磨)由緒で「牛頭天王総本宮」を名乗る『全国著名神社名鑑』
赤山禅院(比叡山の西坂本)赤山明神が泰山府君と同じ神とされてきた『異神』
星田妙見宮(大阪府交野市)北辰妙見と鎮宅霊符神を同じ神とする『陰陽師の日本史』

【表】晴明伝説が根づいた神社

神社・お寺(所在地)なぜ陰陽道の神社か本
五方山熊野神社(東京都葛飾区)晴明の勧請と伝わる。社地は五角形小池淳一論文、『陰陽師の日本史』
阿倍王子神社・安倍晴明神社(大阪・阿倍野)安倍氏の本拠。「晴明産湯の井」が伝わる『陰陽師の日本史』、梅田千尋論文
信太森神社(大阪府和泉市)葛の葉の伝説の地『陰陽師の日本史』

1つ目の表は人と家、2つ目は神、3つ目は物語。それぞれが神社と陰陽道と繋がっています。同じ「陰陽道の神社」でも、つながり方がまったく違うようです。

本によって選ばれる神社が違う

『陰陽師の日本史』の第7章は、陰陽道ゆかりの神社仏閣を10か所、1社1ページで紹介しています。京都の晴明神社・赤山禅院・大将軍八神社、奈良の安倍文殊院が並びます。大阪の阿倍王子神社・葛葉稲荷神社・星田妙見宮も入っています。その他にも名古屋の上野天満宮、東京の五方山熊野神社、敦賀の晴明神社が掲載されていて、京都だけではないんだなと思いました。

『陰陽師の解剖図鑑』は、陰陽道にゆかりのある全国の神社として12社を挙げています。ただ、紹介文に晴明か土御門家の名が出てくるのは、そのうちの5社でした。出羽三山神社や神田明神など6社は、一行の紹介文に陰陽道との関わりが書かれていません。

1754年に土御門家が選んだ晴明の旧地

晴明の子孫である土御門家は、宝暦4年(1754)の晴明の七百五十年祭のとき、晴明ゆかりの地を7か所示しました。梅田千尋氏の論文に、その史料が載っています。

晴明ゆかりの地

・和州安倍山 是者元祖仲丸公御旧地ニ而則晴明霊社遺骸相納石櫃有之 当家第一之所ニ候事
・摂州東成郡安倍野村 晴明霊社旧地毎月鎮火祭被修行候 第二之旧跡也
・若州名田庄 当家之旧地ニ而霊社鎮座之所ニ候 第三
・泉州信田当家之旧地ニ而則 霊社鎮守有之候 第四
・京葭屋町一条 当家元屋敷霊社有之候 第五
・嵯峨寿寧院寺内 晴明廟所有之候 第六旧跡
・伏見街道 二橋元遣迎院 晴明旧墓有之候事 第七旧跡
(「晴明霊社旧地之次第」。梅田千尋氏の論文から引用)

第一は奈良の安倍山で、いまの晴明神社にあたる「京葭屋町一条」は第五でした。梅田氏は、各地で別々に祀られていた晴明の旧跡が、このとき土御門家にまとめられ、順番がつけられたと見ています。

晴明の伝説は、京都・大阪・熊野のほか、茨城・愛知・敦賀・香川などにも伝わります。斎藤英喜氏は高原豊明氏の研究をもとに、伝えたのは民間の陰陽師や修験者、祈禱師、神職だったと書いています。斎藤氏は、各地の「晴明神社」の存在から、晴明もまた陰陽道の神々のひとりだったと見ています。

【出典】『陰陽師の日本史』第7章 pp.196〜205/『陰陽師の解剖図鑑』pp.146〜147/梅田千尋「近世における晴明像の変容」『新陰陽道叢書 第五巻』pp.132〜133/斎藤英喜『陰陽道の神々 決定版』pp.30・163

陰陽師の家と役所につながる陰陽道の神社

陰陽師の家と役所につながる陰陽道の神社

晴明神社の場所には3つの見方がある

晴明神社は一条戻橋のほど近く、京都市上京区晴明町806にあります。社紋は晴明紋と呼ばれる五芒星です。社伝では、寛弘2年(1005)に没した晴明の偉業を讃え、一条天皇の命で晴明の邸宅跡に創建されたと伝わります。創建の年は、寛弘4年(1007)と伝えられています。

一方、平安時代の記録は、晴明の家を別の場所に書いています。『今昔物語集』巻24第16は「土御門よりは北、西の洞院よりは東」と記します。『大鏡』巻一の花山天皇の項には、「そのいゑ土御門、町口なれば、御道なりけり」とあります。

『陰陽師の日本史』によれば、長承元年(1132)に安倍家の嫡流・泰親と庶流・晴道のあいだで相続争いが起きました。その記録から、実際の邸宅は晴明神社の南西約500mの土御門町付近と考えられています。いまの京都ブライトンホテルの南側一帯にあたるそうです。

では、晴明神社はなぜ今の場所にあるのでしょうか?本によって、見方が3つありました。

【表】晴明神社が今の場所にある理由の見方

見方内容出典
移転の見方邸宅の中に建てられた神社が、応仁・文明の乱などの戦火で今の場所に移された「のだろう」『陰陽師の日本史』
別の地点の見方今の神社の場所と、子孫が伝えた屋敷地は別の地点。江戸時代に今の場所を屋敷跡とする伝承が定着し、土御門家も受け入れた梅田千尋論文
境界の地の見方戻橋は都の内と外を分ける境界で、橋占の場だった。その特殊さと晴明伝承の広まりから神社が形づくられた『陰陽道の発見』

3つの見方はどれも、平安時代の晴明の家を、今の神社とは別の場所に置いています。違うのは、そこから今の場所へどうつながったのかの読み方のようです。

江戸時代の土御門家も、この屋敷のことを気にかけていました。宝永2年(1705)閏4月25日、江戸の天文方・渋川春海(しぶかわはるみ)が土御門泰福に宛てた書簡が残っています。

扨、御先祖御屋敷事、いかにもむら雲(村雲)とやらん申所承候、何とそ御手ニ入様可被遊候、[是]申入も安キ様存事候
(渋川春海の書簡。梅田千尋氏の論文から引用)

村雲は、一条戻橋のあたりの古い地名です。泰福はこの屋敷を手に入れようとし、春海は幕府の中枢に働きかけて支えたと、梅田氏は書いています。

江戸時代の晴明神社は、いまの姿とはかなり違っていたようです。元禄期の『山州名跡志』には「鳥居〈東向/木柱〉、拝殿」とあります。梅田氏は、境内の一部が人家の敷地で、町屋の屋敷の中にある神社のようだったと見ています。

七百五十年祭の前、土御門家の家司はこの地を「愛宕の僧」の居宅だと認識していました。愛宕山のお寺の里坊(山のお寺の僧が里に構える住まい)で、それまで土御門家との接点はなかったといいます。この祭をきっかけに交流が始まり、比叡山の僧を招いて三日間の法会が行われました。

嘉永7年(1854)の八百五十年祭でも、表記は「愛宕山大善院里坊鎮座晴明社」でした。法事も、天台宗の作法で行われたそうです。

晴明の命日9月26日はどこから来たのか?

晴明神社の例祭は9月26日で、晴明の命日と結びつけて語られてきました。梅田千尋氏と山下克明氏の研究をたどると、この日付には長い道のりがありました。

【表】晴明の命日をめぐる記録

時期書かれていること出典
寛弘2年(1005)85歳で没したとされる。3月8日の反閇(へんばい)が史料に見える最後の姿(『小右記』)『陰陽道の発見』
最古の系図「陰陽家系図」(宮内庁書陵部蔵)に「寛弘二十二十六」(12月16日)梅田千尋論文、『陰陽道の発見』
元禄15年(1702)成立の『山州名跡志』「安陪晴明社」に「例祭 九月廿六日神輿一基」梅田千尋論文
宝暦4年(1754)土御門家の七百五十年祭は主に3月下旬梅田千尋論文、『陰陽道の発見』
文化元年(1804)土御門家は3月と9月の二度。晴明社は9月へ移った梅田千尋論文
天保年間(1830〜43)以降土御門家の系図が9月26日を命日と記す『陰陽道の発見』、梅田千尋論文

梅田氏は、9月26日がもともと晴明社の祭日だったと見ています。その日付が、あとから土御門家の系図に入ったことになります。明治初期の「土御門家譜」には「寛弘二年九月二十六日卒 八十五歳」とあるそうです。

七百五十年祭が3月だった理由について、山下氏は推測を添えています。『簠簋抄(ほきしょう)』には、三月の清明節にちなんで天皇から「清明」の名を賜ったという話があります。山下氏は、土御門家にも本当の忌日は伝わっていなかったのだろう、と書いています。

「陰陽家系図」がいつできたかは、2人の見方が分かれます。山下氏は「原型は室町時代以前に成立」、梅田氏は「一七世紀後半成立と推定」と書いています。

室町時代は1573年に終わるので、「室町時代以前」は遅くとも1573年までということになります。「一七世紀後半」は1651年から1700年ごろです。少なくとも80年近く、長ければ数百年の開きがありますね!

山下氏は系図のもとになった形を、梅田氏はいま残る写本を見ているのではないかと考えています。

八十五歳!?当時としてはかなりの長生きですね。

進一
進一

晴明神社が不思議な場所と言われる理由

晴明神社のそばの一条戻橋は、都の内と外を分ける境界でした。山下氏は、ここがこの世とあの世が交わる霊所で、橋で吉凶を占う橋占の場だったと書いています。

鎌倉時代の『源平盛衰記』巻10には、晴明と戻橋の話があります。晴明の妻が式神(十二神将)の姿を怖がったので、晴明は式神を戻橋の下に置きました。そのため戻橋で橋占をすると、式神が人の口に移って善悪を示したといいます。

『今昔物語集』は、晴明の子孫が最近まで家で式神の声を聞いていたと伝えます。山下氏は、こうした話の発信源を、家を継いだ子孫だろうと見ています。不思議な場所という印象は、千年かけて重なってきた語りの歴史でもあるようです。

大将軍八神社に陰陽寮の資料が残る理由

大将軍八神社が「陰陽師の家と役所」の表に入るのは、旧陰陽寮の役人の家に伝わった資料を保管しているからです。鈴木一馨氏によれば、「皆川家旧蔵資料」はもともと神社に伝わったものではなく、旧陰陽寮の寮官家・皆川家の資料でした。昭和60年代、皆川家の住宅改築のときに、親戚にあたる宮司が一括して神社に引き取ったそうです。

資料は968点・809題あります。旧陰陽寮の資料として、宮内庁書陵部の「土御門家文書」、京都府立京都学・歴彩館の「若杉家文書」と並ぶものとされています。いまは方徳殿に保管され、約20点が展示されているそうです。

皆川家は宝暦9年(1759)から土御門家に仕えた家でした。皆川家の次女・高津は、のちの当主・土御門晴雄の母でもあります。鈴木氏は、江戸末期の陰陽寮が、長官の土御門家、家司の若杉家、実務の皆川家というラインで動いていたと描いています。

神社そのものは、『陰陽師の日本史』によれば延暦13年(794)の平安京遷都の際、大内裏の北西の角に創建されました。祀られる大将軍神は、年によって方位を変える八将神のひとりで、いる方角が3年動かないため「3年ふさがり」ともいわれます。

安倍文殊院は安倍氏の氏寺と伝わるお寺

奈良県桜井市の安倍文殊院は、日本三文殊の一つで、文殊菩薩が本尊のお寺です。寺伝では、乙巳の変(いっしのへん、645)で左大臣となった安倍倉梯麻呂が、氏寺の安倍寺を建てたのがはじまりと伝わります。晴明が生まれたお寺とも伝わり、金閣浮御堂には安倍仲麻呂と晴明の木像があります。1754年の史料で「第一」の旧地とされたのが、この安倍山でした。

名田庄に土御門家の陰陽道が残る理由

天社宮 撮影:高島進一

室町時代、安倍家は「土御門家」という貴族になりました。斎藤氏は柳原敏昭氏の研究をもとに、安倍有世が足利義満に重んじられ、晴明をこえる従二位に上ったと書いています。応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱で、安倍家は所領の名田庄(なたしょう。いまの福井県おおい町)に移りました。

梅田氏は、戦国期の土御門家が名田庄と京都を「往復」するなかで、家伝の多くを失ったと書いています。名田庄は、1754年の史料で「第三」の旧地とされました。京都府立京都学・歴彩館蔵の『若杉家文書』には、泰山府君祭を行う祭祀場や安倍家の墓所などを描いた、名田庄の地図があります。

江戸時代の土御門家の動きは、斎藤氏が木場明志氏の研究をもとに紹介しています。天和3年(1683)、土御門家は地方の陰陽師を自家の「門人」とする決まりを、幕府と朝廷に認めさせました。陰陽師は土御門家の許状を受けなければ認められず、上納金も納めたそうです。

明治3年(1870)、土御門家が門人をとることを禁じる法令が出ました。この法令を、『陰陽師の日本史』は「天社禁止令」、斎藤氏は「陰陽道禁止令」と呼んでいます。日付を閏10月17日と書いているのは斎藤氏です。陰陽寮は廃止され、土御門家は造暦の権利も失いました。

それでも名田庄では、ひそかに陰陽道が受け継がれていたそうです。戦後、天社土御門神道が宗教法人として復活し、泰山府君と安倍晴明を祭神としています。名田庄には「土御門斎場天壇」があり、陰陽道の祭祀場や安倍家の墓などが残ります。

2月に行われた星祭に参加してきました!

進一
進一

【出典】『陰陽師の日本史』pp.137・157・168・187・196・198〜199・205/山下克明『陰陽道の発見』pp.218・234〜235・250/梅田千尋「近世における晴明像の変容」pp.118・122〜123・129・133/鈴木一馨「皆川家文書の陰陽道関係史料」pp.557〜560/斎藤英喜『陰陽道の神々 決定版』pp.31〜32・275/『陰陽師の解剖図鑑』p.147

陰陽道の神を祀る神社

陰陽道の神を祀る神社

八坂神社の祭神は古い記録で牛頭天王と呼ばれていた

八坂神社は、通称「祇園さん」です。『全国著名神社名鑑』の由緒では、始まりは斉明天皇2年(656)とされています。高麗から来た伊利之使主が、新羅国牛頭山の素盞嗚尊を八坂郷に祀ったという内容です。

祇園祭は、貞観11年(869)の疫病流行の際に神輿を神泉苑へ渡し、御霊会を行ったのが起源とされます。

斎藤英喜氏によれば、「八坂神社」は明治以降の名前です。古い記録では「祇園社」「祇園感神院」「祇園天神堂」と呼ばれ、もとは観慶寺というお寺に付属する神社でした。

史料に見える最初の姿は、10世紀の『日本紀略』です。延長4年(926)6月26日に、ひとりの修行僧が「祇園天神堂」を建てたという記事があります。牛頭天王の名が史料に現れるのは、平安時代後期の11世紀あたりからだそうです。

延久2年(1070)10月14日、祇園感神院が火災に遭いました。歴史書の『扶桑略記』には、11月18日に「祇園天神」を新しい神殿に移したと書かれています。ここに、牛頭天王の名は出てていませんでした。

ところが、同じ火災を書いた別の記録があります。『玉蘂(ぎょくずい)』という書物に写し取られた「祇園社焼亡例事」で、そこには「牛頭天王御足焼損す」とありました。牛頭天王の足が焼けて傷んだ、という意味です。同じ火事なのに、一方は「祇園天神」、もう一方は「牛頭天王」と、神の呼び名が違っていたことになります。

斎藤氏は今堀太逸氏の研究をもとに、こう説明しています。「祇園天神」と呼ばれた神は、御霊会の広まりのなかで、いつしか牛頭天王と重ねられていったそうです。では、牛頭天王とスサノヲはいつ結びついたのでしょうか?

斎藤氏によれば、両神を一体と説いたのは『釈日本紀』でした。鎌倉中期に卜部兼方(うらべのかねかた)が編んだ、『日本書紀』の注釈書です。兼方は、父・兼文の説として次のように書いています。

先師申して曰く、これ則ち祇園社本縁なり。
(『釈日本紀』巻第七。斎藤英喜『陰陽道の神々』から引用)

1:『備後国風土記』に伝わる「武塔神(むとうしん)」の話で、武塔神が最後に「実はわたしはスサノオだ」と名乗った。
2:病気を追い払う海外の神様「牛頭天王」の話と、武塔神の話(親切にしてくれた「蘇民将来」を助け、いじわるな弟を退治する話)の内容がそっくりだったので、牛頭天王=武塔神となった。
3:だから「武塔神 = スサノオ = 牛頭天王」になったということですね!

ただ、この関係性はもっと深ぼって調べてみたいですね🤨

進一
進一

明治元年(1868)5月、「東山感神院祇園社」は名を改め、「八坂神社」になりました。

その後、牛頭天王の名は消え、祭神は「素戔嗚尊」と呼ばれるようになったと、斎藤氏は書いています。いま祇園祭の神輿三基に乗るのは、西間・稲田姫、中央・素戔嗚尊、東間・八柱御子神の三神です。

【表】八坂神社の始まりと祭神

何を神社側(名鑑の由緒)史料と研究
始まり656年、伊利之使主が素盞嗚尊を八坂郷に祀った史料の初見は926年の「祇園天神堂」
祭神素盞嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神平安後期は「牛頭天王」。スサノヲとの一体化は『釈日本紀』から
名前八坂神社明治元年5月までは祇園社・祇園感神院

神社の由緒と史料が語る始まりは、270年ほどずれています。どちらかが間違いというより、千年分の歴史が重なった神社なのだと思います。

廣峯神社は牛頭天王の総本宮?

播磨の廣峯神社は、名鑑の由緒で「牛頭天王総本宮」とあります。由緒では、天平5年(733)に唐から帰国した吉備真備が牛頭天王の神託を受け、翌年に社殿を造営しました。平安時代に京都の疫病を鎮めるため八坂に分祭すると、たちまち病が治まったとも伝えています。

同じ名鑑の中で、八坂の項は伊利之使主の創祀、廣峯の項は廣峯からの分祭と、始まりの語りが食い違っているようです。斎藤氏は、広峯は本来は祇園社の分社で、伝承のうえで「元祇園社」とされたと見ています。京都にも、岡崎神社や粟田神社、梛神社など、「元祇園」の伝承をもつ神社が複数あるそうです。

赤山禅院の赤山明神は泰山府君と重ねられてきた

赤山禅院は、比叡山延暦寺の塔頭(たっちゅう。延暦寺に属する小さなお寺)です。『陰陽師の日本史』によれば、京都御所と、鬼門の方向にある延暦寺とを結ぶ線上にあります。赤山明神は、しばしば道教の泰山府君と同じ神とされてきました。

赤山とは、晨旦の山の名也。彼の山に住神なれば、赤山明神と申にや。本地地蔵菩薩なり。太山府君とぞ申す。
(『源平盛衰記』巻十。山本ひろ子『異神』注28から引用)

赤山禅院の始まりは、語り手によって3つに分かれます。山本ひろ子氏の『異神』と『陰陽師の日本史』をもとに並べてみました。

【表】赤山明神の始まりの3つの層

語り手語られていること出典
寺伝円仁が唐から帰る遣唐使船が嵐に遭い、赤山明神が現れて救った。仁和4年(888)に祀られた『陰陽師の日本史』
『慈覚大師伝』(939年成立)帰国の途中で逆風に遭い、赤山法華院で冬を越した円仁が、翌春「当所の山神」に禅院の建立を発願した『異神』
円仁自身の旅行記赤山の禅院に滞在した記事はあるが、山神に加護を求めた記事は見えない『異神』

山本氏は、山神への発願を「弟子たちによる脚色であろうか」と書いています。そのうえで、赤山明神がもとは赤山の地の山神だった可能性は大きいと見ています。誰が祀ったかについても、寺伝は天台座主の安慧(あんね)、『異神』は円仁の弟子たちと書いていて、語りが分かれます。

星田妙見宮に残る鎮宅霊符

星田妙見宮(大阪府交野市)は、北辰妙見大菩薩と太上神仙鎮宅霊符神を、同じ神としています。2つ目の表、陰陽道の神を祀る神社に入れたのは、そのためです。鎮宅霊符神は、天の世界では北極星の神・北辰尊神とされます。

鎮宅七十二霊符(ちんたくしちじゅうにれいふ)は、72種のお札を1枚の大判に並べた、家を火災や災害から守る護符です。平安時代の記録にも、これに近い呪法が出てきます。平信範の日記『兵範記』は、仁平3年(1153)に陰陽頭の賀茂憲栄が来たと記しています。憲栄は母屋の四方にお札を打ち、「七十二星鎮札櫃」を掲げたそうです。

「72」という数には、本によって3つの説明があります。『陰陽師の日本史』は、易占の八卦と六十四卦を足した数とします。『呪術・呪法事典』は、八卦から割り出された数とも、一年の七十二候からとった数ともいう、と書いています。

『陰陽師の日本史』によれば、星田妙見宮には元治元年(1864)の鎮宅七十二霊符の版木が残っています。霊符は、いまも頒布しているそうです。ご神体は、弘仁年間(810〜824)に空海のもとへ降った星と伝わる、山頂の影向石(ようごうせき)です。

奈良の陰陽町と鎮宅霊符神社

奈良には、興福寺大乗院に仕えた賀茂家の流れ、のちの幸徳井家(こうとくいけ)がいました。斎藤氏は木場明志氏の研究をもとに、近世の奈良には暦陰陽師が住む「陰陽町」があったと書いています。陰陽町の通りには、いまも鎮宅霊符神社があります。

【出典】斎藤英喜『陰陽道の神々 決定版』pp.114〜116・120〜121・124〜127・134〜136・210・212・275/『全国著名神社名鑑』pp.309・346/山本ひろ子『異神』pp.78〜81・84・136/『陰陽師の日本史』pp.178〜179・197・202/『呪術・呪法事典』pp.167〜168

晴明伝説が根づいた陰陽道の神社

晴明伝説が根づいた陰陽道の神社

五方山熊野神社の晴明の伝承は少しずつ育ってきた

東京都葛飾区立石の五方山熊野神社は、社伝では長保年間(999〜1003)に晴明が創建したと伝わります。社地は三十間五角(一辺約55m)の五芒星の結界で、周囲を流れる中川の水害が多かったためとされます。いまも周囲の道路は正五角形で、社紋は正五角形に八咫烏です。

この晴明の伝承は、いつから本に書かれるようになったのでしょうか?

小池淳一氏は論文で、伝承が出てくる本を古い順に並べています。並べてみると、書かれている中身が少しずつ増えていくのがわかります。いちばん古いのは、寛政6年(1794)に序文が書かれた古川古松軒の『四神地名録』です。

里人の云ヒ伝へには、熊野三所権現の地は、安倍の清明か住せし旧地といへり、清明此国に住せしと云事、古書にはなし、食地にてもありし事にや、五方山南蔵院立石寺といふ真言地有り、さして由褚はなき寺なから、土地もきれひにしてあしからぬ寺院にて、御膳所となる寺と云々
(『四神地名録』。小池淳一氏の論文から引用。「由褚」の横には「緒」と注記がある)

1794年の時点では、晴明が住んだ地という言い伝えだけで、勧請も五角形も出てきません。書いた古松軒自身が、「古書にはなし」と添えていました。

36年後、天保元年(1830)成立の『新編武蔵風土記稿』には、こうあります。

熊野社 村ノ鎮守ナリ。神体ハ石劔ニシテ。長二尺余村名モコレヨリ起レリ。相伝フ当社ハ安倍晴明ガ勧請ナリ。社地ハ五行ニカタドリテ。五角ナリシト。今モ其形残レリ。南蔵院持。下二社同ジ。末社香取 稲荷
(『新編武蔵風土記稿』。小池淳一氏の論文から引用)

1830年には「晴明の勧請」と「五角の社地」が現れ、いまは「五芒星の結界」と語られています。小池氏の見立てでは、伝承はおおむね18世紀末から19世紀前半には、今に近いかたちで存在していました。背景には、真言宗のお寺・南蔵院と結びついた伝承があったと推測できる、とも書いています。

安倍晴明神社は大阪と京都で何が違う?

大阪の阿倍王子神社は、古代の豪族・安倍氏の本拠地だった阿倍野にあります。『陰陽師の日本史』によれば、熊野詣の九十九王子の4番目で、平安時代以降は多くの陰陽師が住んだそうです。約50m北の境外社が安倍晴明神社で、京都の晴明神社と同じ寛弘4年(1007)の創建と伝えられます。

名鑑では、阿倍王子神社の祭神は伊邪那岐命・伊弉那美命・速素戔嗚命です。梅田氏によれば、境内には「晴明産湯の井」と伝わる井戸があり、その北側の飛地にある神社が、いまの安倍晴明神社です。京都が晴明の住まいと戻橋の地なら、阿倍野は安倍氏の本拠と晴明の誕生の伝承をもつ地だといえそうです。

1754年の史料では、安倍野村は「第二之旧跡」で、毎月鎮火祭が行われているとされました。ただ梅田氏は、近世の阿倍野村で晴明に関わる祭儀があったことを示す史料は見当たらない、と書いています。阿倍王子神社には、晴明を描く最古の肖像画とされる、14世紀末の「安倍晴明公御神像」が伝わります。

葛の葉の伝説と信太森神社

大阪府和泉市の信太森神社(しのだのもりじんじゃ)は、和銅元年(708)の創建と伝わります。保名が助けた狐が人に化けて保名の妻となり、晴明を産んだという葛葉伝説の地で、社紋は3枚の葛の葉です。北方には、同じ伝説を伝える聖神社があります。

ただ、1754年の晴明祭が行われたのは、葛の葉の「信太の森」ではありませんでした。梅田氏によれば、1kmほど南東の信太明神、いまの聖神社です。信太明神には晴明に直接つながる史跡がないのに、土御門家は「当家之旧地」としました。梅田氏は、そこに陰陽師の村の影響があったと見ています。

葛の葉の物語も、本によって中身が少しずつ違います。梅田氏と斎藤氏の研究をもとに、古い順に表にしてみました。

【表】葛の葉の物語の育ち方

書物晴明の生まれの語り出典
『簠簋抄』(寛永4年・1627年の版以降)晴明は常陸国の生まれ。信太の森の妖狐が訪れ、土地の男とのあいだに晴明を宿した梅田千尋論文、『陰陽道の神々』
『安倍晴明物語』(寛文2年・1662)しのだの森の狐葛の葉と安倍保名の間に生まれた安倍童子」の子別れの物語梅田千尋論文
『蘆屋道満大内鑑』(享保19年・1734)大坂竹本座で初演。翌年に京都で歌舞伎になった梅田千尋論文

どの本でも、晴明の母は信太の狐です。違うのは、父親と生まれた土地でした。『簠簋抄』では父は常陸の土地の男で、生まれも常陸です。『安倍晴明物語』や芝居では、父は安倍保名で、生まれは信太になっています。

『簠簋抄』や『安倍晴明物語』では、晴明の生まれの話が、暦や占いの解説と一緒に書かれていました。梅田氏は、晴明の話が暦や占いから離れて物語として語られるのは、芝居が広まってからだろうと見ています。

【出典】小池淳一「近代における晴明像の再生」pp.149〜150/『陰陽師の日本史』pp.200〜201・204/『全国著名神社名鑑』p.331/梅田千尋「近世における晴明像の変容」pp.114〜116・131〜133/山下克明『陰陽道の発見』p.250/斎藤英喜『陰陽道の神々 決定版』pp.30・162〜163

陰陽道の神社を回るときに見る場所

陰陽道の神社を回るときに見る場所

この記事の神社は、まだ僕自身が参拝していない神社が多く、本のページをもとに書いています。参拝したら、現地で見た由緒書の文言と写真を足して書き直す予定です。

晴明神社では、社紋の五芒星を見るのが入口になりそうです。福永光司氏は『道教と日本文化』で、晴明神社の星印の瓦に触れています。神社の由緒書を読んだら一条戻橋まで歩き、平安時代の記録にある土御門町のほうを地図で確かめてみるのもよさそうです。

大将軍八神社では、方徳殿の大将軍神像と、皆川家の資料の展示が見どころです。『陰陽師の日本史』によれば、神像は10〜13世紀の作で、80体が「立体星曼荼羅」として安置されています。赤山禅院では、拝殿の屋上にいる鬼門除けの神猿の像を探してみるのもよさそうです。五方山熊野神社では、周囲の道路の五角形を、歩いて確かめられそうです。

神社の由緒書と、この記事の史料を見比べると、同じ神社が違う時代の言葉で語られているのが見えてきます。

まとめ|陰陽道の神社は3種類に分けられる

陰陽道ゆかりの神社は、陰陽師の家と役所、陰陽道の神、晴明伝説という3つのつながり方に分けられるようです。晴明神社の場所には、移転、別の地点、境界の地という3つの見方がありました。

八坂神社の神は、祇園天神、牛頭天王、素戔嗚尊と、時代ごとに呼び名が変わっています。五方山熊野神社や信太森神社の晴明の伝承は、江戸時代のあいだに、少しずつ話が増えたり変わったりしてきました。どの神社も、社伝と史料を並べると、千年分の歴史が見えてくるようです。

あなたは、陰陽師の家の跡、陰陽道の神、晴明の伝説のうち、どの神社に惹かれますか?

参考文献

・『陰陽師の日本史』加門七海
・『陰陽師の解剖図鑑』川合章子
・『全国著名神社名鑑』
・『陰陽道の神々 決定版』斎藤英喜
・『陰陽道の発見』山下克明
・『新陰陽道叢書 第五巻 特論』梅田千尋、小池淳一、鈴木一馨
・『異神』山本ひろ子
・『呪術・呪法事典』藤巻一保
・『道教と日本文化』福永光司

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